憂鬱な希望としてのインターネット
5年くらい前に村上龍がインターネットについて書いた本で、
憂鬱な希望としてのインターネットという本がある。
当時は、村上龍自身も有料サイトを立ち上げたり、ネットで動画配信したりとどちらかというと技術を試していた時期だったが、この本を読んでインターネットの可能性と憂鬱さを同時に感じたのを覚えている。
先日の長崎の小6女児殺害事件でこの憂鬱な面を思い出した。憂鬱というのは、狭い部屋に閉じ込められたような閉塞感のようなものか思うが、まさに出口のない憂鬱な事件である。インターネット自体がよい、悪いという評価をするとかいったレベルでなく、インターネットがここまで生活に入り込んでいるという現実感を味わった。
インターネットは個人間のコミュニケーションを高める仕組みである一方、過度のコミュニケーションにより、自分と他者の距離や位置関係を混乱させてしまう。自分と他者との壁を見えなくする。人間ほどコミュニケーション好きな存在はない、というふうなことを村上龍<も言っていたが、今という時代はインターネットという最強のコミュニケーションツールを入手して指数関数的にコミュニケーション機会が増えた時代だと思う。
今回の事件は、捜査が進めばある程度の結論はでるとは思うが、結論がでればよいという問題ではなく、よりインターネットの本質的な問題をあらわにしたと思う。
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高い人, 私はあなたの場所を, 持っているよい日を愛す る
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